1 動き出した時間
ベランダに出てみると、鉛色の空の下、街が一望できた。案外高台にあるらしい、と古谷剣之介は冷たい空気で肺を満たしながら思った。
東北の地方都市、政令都市には届かないが、それに近い規模の街。連なる住宅と、遠くには駅前のビル群が望めた。どれも空と同じ、くすんだ灰色に見える。
高台は同じでも、他は横浜と違う。海もないし、3月なのにまだ寒い。それになんだか重苦しい。この空のせいだろうか、それもあるだろうが、多分、気持ちの問題だ。
新しい土地、新しい生活、新しい学校・・・。
不安というより、面倒臭い。
チラリと隣の窓を見やる。剣之助はハァと溜息をつき、部屋に引き返した。
2DKのアパート。フローリングの部屋を取った。
隣の和室は、岩熊太一が入った。最初はちょっと不満げな顔をしたが、強く押したら案外素直に応じた。身を引いた、というよりどちらでもよかった、といった感じだった。エビス顔のヘラヘラした雰囲気の割りに、我は強いのかもしれない。
メンドくない奴ならいいのだが。
岩熊太一、従兄弟で、父親の妹の息子。小学校低学年の頃まで、何度か遊んだことがあったが、それ以降会うことも無く、一緒に住むと決まるまで、まったく忘れていた存在だった。
同い歳で、4月から、同じ高校の一年として通うことになっていた。
ホントにこれでよかったのだろうか、剣之助はベッドに腰掛け、肘を膝に付いて顎を載せた。どうにか片付いた六畳の部屋を見渡す。高校生にししては小ざっぱりとし過ぎたともいえる空間。ベッドに机にパソコン・ラック、本棚、コンポ、そして未だ開かれていないダンボールが二つ、部屋の隅にあるだけだった。
横浜の祖父の家にいた時使っていた部屋よりも狭いが、基本的に物が無いから、余り関係なかった。
じいちゃん・・・、声にならない声で無意識に呟く。もうこの世に居ないと思うと、奇妙な感じがする。まだ自分の中には居るのに、この世界のどこを探してもいないなんて、納得がいかなかった。悲しみより、その不思議さが許せなかった。世界ってなんだ? 死ぬってなんだ?
隣でまだ引越しの荷物を片付けている岩熊の気配がする。やっぱり一人で住む方がよかった。しかしそれは許されなかった。今ではたった一人の家族である父親の意向だ。こんな時、生活力の無い子供である自分に腹が立つ。今まで散々ほったらかしにしてたくせに、いきなり保護者ヅラだ。
あんな父親についてアメリカに行くなんてまっぴらだった。だから今まで祖父の家にいたんだ。それがいきなり死んでしまって・・・。父親と一緒に住むのは嫌だった。まして今は知らない女と結婚までして、むしろ俺の存在なんて邪魔なはずだ。だからといって、横浜の祖父の家に一人で住む気にもなれなかった。あそこに独りでいたら、やがて悲しみと寂しさに押し潰されてしまいそうな気がしたから。そしてそんな弱い自分に我慢出来なそうだったから。
怖かったのだ。そんなコントロールできない、弱い自分と面と向かうのが・・・。
『トントン』
不意にドアがノックされる。
そして返事も待たずに引き戸が開いた。
「ケンちゃん、なぁなぁ片付いた?」上下のスウェット姿の太一がずかずかと部屋に入ってくる。「うわぁ、すっげぇ片付いてるなぁ。あ、パソコンあんだ! できんの?」
まるで兄弟に対してのような無遠慮な振る舞い。剣之助には信じられなかった。いくら従兄弟といっても、小さい頃、数回遊んだだけで、こっちは殆ど忘れていたのに、そんなの全部はしょって、一気に距離を詰めてくる。息苦しいほどに、腹立たしいほどに。
これはある種の才能なのか? 単なるバカなのか?
だいたいガキじゃねぇんだから、『ちゃん』付けで呼ぶなよ。コイツはあの頃のまんまなのか?
「本とかもいっぱいあんな~。ケンちゃん勉強できそう」
太一はポケットに手を突っ込み、きょろきょろしながら部屋をぶらつく。
「あのさぁ、その『ケンちゃん』っていうの、やめてくれえる?」
「へ? なんで?」
イラっとくる。膝の上で握られた拳が汗ばむ。
この無頓着さが。
「なんでも」
一瞬言葉に詰まったように、太一は黙り込む。戸惑ってるようにも、納得しているようにも、不服そうにも見える無表情で。
「ふ~ん、わかった」
そう言ってクルリと体を反転させ、ドアに向かった。
「あ、そうだ」部屋を出るついでに、振り向きざま、太一は人懐っこそう笑顔で言った。「あとでオレの部屋も見に来てよ」
ドアがすーっと閉まる。
なんで俺があいつの部屋を見に行かなきゃならないんだ?
剣之助は溜息をついて、ベッドに勢い良く倒れ込んだ。
ただ一緒に住むだけで、別にお互いかかわり合ったりしなくてもいいのに。
メンドクサイ。
祖父の葬儀の時、久しぶりに父親に会った。これからどうするんだ、と問われた。だから、あんたに付いて行くのではなく、横浜に残るのでもなく、日本で、独りで暮らしたい。ここではない、どこかで、と訴えた。
剣之助は人に庇護されるのは大嫌いだが、必要とあらばなんでも躊躇せずにとことん利用する性格だった。
独り暮らしをするには金が要る。父親に頼るのは嫌だけど、この人は俺を助ける義務がある。貰えるものは貰っとく。
そこで条件が出された。父親の妹、幹子叔母さんの息子が、春から独り暮らしをする予定で、しかし叔母さんはそれが心配で仕方ないらしい。そこで剣之助が一緒に住んでくれれば、少しは安心出来るという。
メンドそうな話しだったが、その他に良い手もなく、剣之助は渋々承諾した。
いつの間にか部屋が薄暗くなっていた。少しうたた寝していたらしい。結構疲れていたのかもしれない。それはそうか、早朝からの引越し、荷解き、片付け・・・。朝はまだ横浜にいた。夕方には福島の見知らぬ街、初めての部屋、忘れていた従兄弟の同居人。一日が、一週間くらいに感じられた。
剣之助はベッドから起きだし、財布を持ち、コートを羽織り、アパートを出た。腹が減ってるんだ。だから心細くなる。
自転車にまたがり、真っ先にチェックしておいた、近所の大型スーパーへ向かった。もっと近くにコンビニがあったが、剣之助はコンビニ弁当や出来合いの物が好きではなかった。
買い物を済ませてアパートに帰ると、ダイニングのテーブルについて、太一が剣之助を待っていた。
「お帰り! 晩飯なに?」
「はぁ?」
「晩飯のメニューだよ」とさも当然の如く訊いてくる。「買い物行ってきたんだろ?」
「そうだけど、おまえの分はないよ?」
「ええ? なんで??」
なんでと言われ、困惑した。祖父と住んでいた五年間、食事はほとんどそれぞれが自分の分だけを作って食べていた。掃除や洗濯は自然に分担してやっていた。一緒に住んでいても、お互いもたれ合うことなく、干渉は最小限で、それでも楽しくやっていた。だからここでも、当然食事は自分で作るものと思い込んでいた。
「オレ、料理出来ないよ。ケンちゃ~ん、どうしよう?」
「知らないよ。弁当でも食えば?」
剣之助はテーブルにドサっと買い物袋を置いた。
「ケンちゃんさぁ~。意地悪言うなよ~」太一は椅子から立ち上がり、剣之助の背後に回って抱きついてくる。「仲良くしようぜぇ~」
「バカ、意地悪とかそういう問題じゃないだろ」剣之助よりでかい体、力強い腕、身動きが取れない。「いいから放せ!」
「他の事はオレ、やるからさぁ、分担し合おうぜぇ、な? いいばい? ソレ」
「わかったから、離れろ!」
「ホント? 嘘だったらはなさねぇよ?」
ああ、なんとなく思い出した。こいつは昔もこんなふうにやたらひっついてくる奴だった。そして今と変わらない丸顔で、人を食ったようにヘラヘラ笑うんだ。黙っていても食事が出てくることを、いつでも母親がいることを、父親がいることを、当然と思って笑うんだ。
そこまで考えて、剣之助は心の中でふぅと一息つく。そんな無頓着さなんて日常茶飯事だった。いつでも周りはそうだった。いちいち気にしてたら、キリが無い。どうでもいいんだ、そんなこと。
引越ししたてだったので調味料なども限られていたから、夕飯は簡単なものにした。春キャベツとアンチョビのパスタ。キャベツを洗っているときに、一口生のままかじってみた。瑞々しくて甘かった。ちゃんと地元産の野菜コーナーで買ったのだ。
ああいったスーパーは、現地にちゃんと新鮮で美味しい食材があるのに、何故か遠い他県から取り寄せた物を大々的に売りたがる。まったく非効率的だし、バカげてる。
「むほ♪ すげぇうめぇーなコレ!」
太一は目の前で二皿目を平らげようとしていた。
まったくこいつは・・・。剣之助は辟易しながら、デイリー・ワインとして買ってきた白ワインのグラスを傾けた。そのせいで、ずっと張り詰めていた意識が少し緩む。
「あれ、ナニ?それ。ナニ飲んでんの?」
太一が細い目を瞠って訊いてきた。
「あ? ワインだけど?」
「ちょ、ワイン? なんでそんなの飲んでんの?」
なんでって・・・。祖父はワインが凄く好きだった。だから食事の時など、自然と飲む習慣がついていた。
「なぁ、ちょっと飲まして」
「ん? ああ、イイけど」
普段はそんなことしないのに、自分のグラスを太一に渡した。自分で思っている以上に気が緩んでいた。見知らぬ土地、見知らぬ部屋、見知らぬ他人、そんなものに囲まれて、なんだか非現実的な、夢心地だった。
ゴクっと一口飲んでから、太一が叫んだ。
「おえぇぇぇ!! なんだコレ、酒だべ!」
「だからワインだって言ったろ?」
「うわ、水、水、水!」
太一は席を立ち、慌てて水道に駆け寄った。
空いたグラス、食べかけのパスタ、ズレた椅子。剣之助は肘をついて、目の前の席をぼんやりと眺める。
ハハハ、じんちゃん、いったい何なんだろうだろうね。ここは騒々しいよ、すごくうるさい。感傷に浸ってるヒマさえないよ。
ついこの間まで、目の前には祖父が座っていた。そして静かに食事をし、ワインを飲む。
それはそれはとても静かな生活で、お互いなにも喋らなくても、大抵のことは通じ合えた。時間はゆったりと流れ、変化といえば、季節のうつろいでしか感じられなかった。ほとんど静止した空間。老人の時間であり、ある意味、死んだ空間だった。剣之助はその時空に、魅入っていた、取り込まれていた、そしてそこに逃げ込んでいた、甘えていたのだ。
「アレ? なんか体が熱いゾ? 頭もぼんやりするし」
席に戻った太一が、顔を真っ赤にして言った。
「クス、おまえ結構お子様だな。あんなんで酔っ払ってやんの」
思いも寄らない軽口が、剣之助の口からこぼれ落ちる。
「バカいうなって、未成年だぞ!」
「ガキだな、ガキ」
「な・・・、おめぇだってガキだべって!」
「くぅ、ハハハハァァ!」
なんだか可笑しかった。腹の底から笑がこみ上げて来る。こんなに可笑しいのは、笑ったのは、なんだか久々のような気がした。
止まっていた時間が、ようやく動き出した。
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