2 はるうらら
岩熊太一と一緒に暮らし始めて十日が経った。そして次第に奴のことが分かってきた。
とにかくなにも出来ない。
料理が出来ないのは初日からわかった。だからそれ以外は分担しよう、などと言っていたクセに、まるで出来ない、いや、やろうとしないのだ。無理矢理やらせたら、遅いし、まごつくし、失敗するしで、見ている剣之介が先にキレてしまい、「もういい、おまえは何もやらんでいい!」と自分ですべて引き受けてしまった。実際、太一にやらせるより、自分でやった方が早いし正確だしキレイになるし、なにより本来他人任せにするのが嫌いだったので、必然的にそうなった。
窓を開け放って、はたきをかけ、掃除機をかけた。ベランダの向こうには淡い春色の空がどこまでも広がっている。ふわりと窓から匂い立つ風が入ってきた。ここに来て十日、日に日に気温は上がり、一気に桜が咲き始めた。大気にも、どこか花の香りが混じっているような気がする。
自分の部屋の掃除が終わった剣之助は、はたきと掃除機を持って、隣の太一の部屋の前に立った。
「お~い、太一、入りますよ~」
今は外出していないのに、一応小声で断りの言葉を呟いてみた。
ふすまを引く。敷きっぱなしの布団、脱ぎ散らかした衣服、読みかけのマンガ、雑誌、等々。
「ハァ~」
剣之介は深い溜息をついた。
あの野郎、洗濯物はちゃんと出しとけって言ってるのに。ホントに何も出来ない、何もやらない。野球以外は。
はっきり言ってホント駄目な奴だが、どうやら岩熊太一は野球だけは上手いらしい。本人の口からしか聞いていないからよく知らないが、とりあえず高校にはスポーツ推薦で入るらしかった。
剣之介はこれも初めて知ったのだが、二人がこれから入学する高校の野球部は、最近実力をつけ始め、この五年で二回甲子園に出場していた。新興勢力であり、今、県内で一番波に乗っている学校で、岩熊太一はそれでこの高校を選んだのだ。
太一の実家は、ここから電車でも二時間近くかかり、更に駅からも離れているかなり遠方で、通うには難しい。しかしまだ高校の野球部には寮というものがなかったので、学校の近くに下宿して通うことになっていた。
そこで出てきたのが剣之介だった。
確かにこの何も出来なさ加減には、母親でなくても心配になるってものだ。剣之介は爪先立ちで太一の部屋を縦断しながら思った。いろんな物を踏まないようにやっと窓まで辿り着き、開け放つ。途端、甘い風が顔を撫でる。
祖父の葬儀の時に、剣之介の父親は叔母の幹子から相談を受けていたのだ。息子の太一が春から離れた高校に通わなければならないが、独り暮らしをさせるのはかなり心配だと。丁度剣之介も父親に独り暮らしをしたい、と訴えていたので、そこで話しがかち合った。
叔母の幹子は剣之介のことは小学生の頃しか知らなかったが、自分の兄に似て、賢くて頼りがいがあるという印象を持っていた。だから剣之介が一緒ならば、いくらか安心して息子を送り出せると思った。
あんなバカを預けられてもな・・・。それでも多少なりに太一と遺伝子を共有していると思うと、腹が立った。なんであいつの世話をせにゃならんのだ。
ハタキをかけながら、机の上の目覚まし時計に目をやる。
あ、そろそろ太一がランニングから帰ってくる。昼飯作らなきゃ。そう思った瞬間、ハタと掃除の動きを止める。
なんだこれは? 俺はあいつの母親か?嫁か?っつーの!!
段々掃除がばかばかしくなってきたので、適当に済ませて昼の用意にとりかかった。
「ただあいま~、腹減った~!」
太一が勢い良く玄関を開けて帰ってきた。
「ケンちゃん、今日の昼飯なぁに?」
完全に太一のペースにはまってることにイラっとくる。そして図らずも乗ってしまう自分にもイラつくいた。
「見ればわかるだろ」
素っ気なくテーブルの上を顎で指す。
「おお! さすが凝り性のケンちゃん、昼から無駄に豪勢だな!」
「おまえさぁ、食べなくていいゾ・・・って」
剣之介の視線が、土埃で汚れた太一のジャージと靴下に止まる。
「な、、、なんでランニングでそんなに汚してくんの? おまえどんだけスゴイとこ走ってきたんだよ! えぇ?」
「あぁ、いやぁ、公園でオッサンたちが草野球してだがらぁ、ちょっとまざってきた」
太一は頭の後ろを掻き、照れながらテーブルについた。
「なんで照れる! その前に手ぇ洗え!」
「たく、うるせぇなぁ。母ちゃんみたいなこと言うなよ」
「う、うるせぇなぁ?? お、おまえ、誰が洗濯すると思って・・・、はぁぁ~」
余りにも頭にきて、酸欠状態になり、剣之介は目眩がして、椅子にグッタリと座り込んだ。
ななな何なんだ?コイツは? 剣之介にはもはや理解不能だった。こんなに他人に振り回されるのは、初めてだった。
なんとか落ち着いたところで、やっと昼飯を食べ始めた。剣之介は無言でサラダを見つめシャリシャリと食べ、太一はダイニングに据えられたテレビでお昼の番組を観て笑いながらチャーハンを食べ、玉子スープを啜った。
クソ、このテレビだって俺のだったのに、と剣之介は心で呟く。
太一の部屋にはテレビが無かった。だから太一は、剣之介のテレビをダイニングに置いて、共同で使おうと提案してきた。当然の如く剣之介は拒否したが、いつもの笑顔のごり押しにとうとう折れてしまった。まぁ、パソコンでも観れるし、だからゆずったんだぞ? 決して俺が負けた訳じゃないんだぞ?
「あぁ、そうだ、太一ぃ」
剣之介はどんよりとした声で言った。
「んん? なに?」
テレビから目を離さず太一。
「おまえ、学校始まったら、言うなよ?」
「へ? 何を?」
「これ」
「は?」
太一の鈍さにはイライラさせられる。
「だから、一緒に住んでること」
「はぁ? なんで?」
細い目を更に細めて、首を傾げる太一。
「なんでもだ! 絶対言うな! 誰にも!」
「ちぇ、自慢になると思ったのに」
「何の自慢になるんだよ!」
「オラ、いつまでテレビ観てんだ? さっさとジャージ脱げ!」
「え!? ケンちゃん、昼間っからやらしぃ♪」
「テメエ、殺すぞ」
剣之介は背後から太一の首を絞めた。
「フグッ、わがったがら、優しくして」
「洗濯すんだよ! 早く脱げ! そして部屋に散らばってるのも洗濯機に入れろ!」
太一はやっと動き出し、ぶつくさ言いながらジャージとアンダーシャツと靴下を脱ぎ、部屋に入っていった。
剣之介は呼吸を落ち着かせ、太一の首に回した掌を見つめる。
随分太い首だ。それにアイツの体、かなり鍛えられているらしい肉付き。ふぅん、野球が上手いっていうのも、あながち大袈裟でもないらしい。
「ほら、早くしろ!」剣之介は太一の部屋に向かって叫ぶ。「干すのも自分でやれよ!」
部屋からは、太一の不平が聞こえてきた。
ハァ、頭痛ぇ。
剣之介はダイニングの椅子に座って頭を抱える。
この先俺はやっていけるのか? すさまじく不安だ。
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